関西学院創立百周年(1989年平成元年)に、関学文芸部OBOGにより『關學文藝 100周年記念特別号』が発行されました。これを契機として翌年、関学文芸OB会は『別冊 關學文藝』を創刊。以後OB以外の執筆者にも参加頂き、年2回の発行を続け、2026年5月15日に第72号を発行しました。 編集:浅田厚美 発行者=伊奈忠彦(同人代表)

2020年7月6日月曜日

季刊文科(2020年夏季号)同人雑誌評より転載 

  










『別冊關學文藝』第59号
(2019年11月発行)掲載の 
 浅田厚美「曇り空のビオラ」が

 『季刊文科』夏季号(令和2年発行)
 同人雑誌評で 取り上げられました 。
 筆者は河中郁男氏。 
 転載させて頂きます。
 
『季刊文科』(発行:鳥影社)
2020年令和2年夏季号

同人雑誌評(河中郁男)

次に浅田厚美「曇り空のビオラ」(別冊關學文藝」第59
号を取り上げてみよう。無邪気で陽気だとも思える筆致で
坦々と植木鉢が盗まれたことから生まれる一連の小さな出
来事について語っていくのであるが、よく出来た作品であ
ると思われる。

 主人公は、子供のいない主婦で夫は一か月ほどの海外出
張中である。そうした一人暮らしの家の前に置いていたビ
オラの植木鉢が盗まれたのである。主人公は真っ直ぐに立
っていられないような「不安」に捉われる。こうした「不
安」の独特な描写が目を引くのであるが、「不安」の原因
は、主人公と夫との「家庭」の形成の仕方とでも言うべき
ものにある。夫は祖父母、両親が「死」に、一人暮らしに
なった家で、田舎から出てきて孤独な主人公と「秘密基
地」のような「家」を作って来たのである。それは、
「死」=外部社会から、「生」=「内部」を守る秘密基地
でもあるのである。

 アメリカの社会学者・リチャード・セネットは、『公共
性の喪失』で、十八世紀に都市空間で形成された「公共
性」の空間が十九世紀の「国家」/「家庭」の形成によっ
て、更には二十世紀の資本主義の隆盛によって崩壊し、
「家庭」は十九世紀のヘーゲルの法哲学が、あるいはフロ
イトの精神分析が想定したような国家や市民社会に出てゆ
くための準備的システムである教育/躾の場所ではなく、
産業社会でエネルギーを使い果たした人間が休息 するた
めの「ナルシシズム的空間」であると断じた。 
 
 この作品の「家」は、典型的な「ナルシシズム的空間」
である。外に対して完全に閉じられた「秘密基地」とし
て、自分自身の「自我」と完全に重ねあわされている。
「家」=「私」の一部である植木鉢が盗まれることは、
したがって自分自身から何かが欠如したことに他ならない
のだ。植木鉢の盗難が、睨めっこの相手が逃げてしまった
ような感覚として、あるいは自分自身の存在を形成してい
るパズルのピースが欠けたような感覚として表現されてい
るのはそのためである。

 主人公は、「お花を盗らないで」と張り紙をした家の女
性と情報を交換し、自分の家にも張り紙をしたことで、同
じように花を盗まれた向かいの家の主婦と初めて話をし、
コミュニケーション可能な空間を広げていく。しかし、一
番重要なのは、幼少のころ過ごした村で、農家の鋤を盗ん
で回り、池に沈めた知恵遅れの青年のことを思い出したこ
とである。主人公は、その青年の盗みは、自分が『金の斧
・銀の斧』の童話を青年に聞かせたことが原因であり池の
中から女神が現れるはずだ、と思い込んでの盗みだった、
ということを思いだすのである。この思い出が喚起される
ことで、主人公は様々な家から盗んできた植木鉢を自分の
周りに置いて「女神」が現れるのを待っている女性を想像
し、初めて不安が解消されるのである。
  
 この挿話の意味するところは、ラカンの無意識の規定、
無意識とは他者からの話であるという発見に似ている。
つまり、自分の意図しない領域、自分が見えない位相に
「他者」がある、ということであり、「他者」は自分が
作り出した原因の意図しない、反転した結果として在る、
ということである。言い換えれば、「私」に対して「他
者」である主観も、「私」を「他者」として見ている主
観で在ることを発見するのである。
 
 最後の部分で、主人公は結婚以来連絡を取っていなかっ
た田舎の家に住む姉に電話をかける。まったく相入れなか
った姉という「他者」とコミュニケーションを取れるよう
になる、というところで話は終わる。