『別冊 關學文藝』

関西学院創立百周年(1989年平成元年)に、關學文藝部OBにより『關學文藝 100周年記念特別号』が発行されました。これを契機として、翌年『別冊 關學文藝』が誕生。以後年2回の発行を続け、関学文藝部OB以外の同人・会員も加わり現在60号を発行。 発行者=伊奈忠彦(同人代表)  

2020年7月6日月曜日

季刊文科(2020年夏季号)同人雑誌評より転載 

  










『別冊關學文藝』第59号
(2019年11月発行)掲載の 
 浅田厚美「曇り空のビオラ」が

 『季刊文科』夏季号(令和2年発行)
 同人雑誌評 取り上げられました 。
 筆者は河中郁男氏。 
 転載させて頂きます。
 
『季刊文科』(発行:鳥影社)
2020年令和2年夏季号

同人雑誌評(河中郁男)

次に浅田厚美「曇り空のビオラ」(別冊關學文藝」第59
を取り上げてみよう。無邪気で陽気だとも思える筆致で
坦々と植木鉢が盗まれたことから生まれる一連の小さな出
来事について語っていくのであるが、よく出来た作品であ
ると思われる。

 主人公は、子供のいない主婦で夫は一か月ほどの海外出
中である。そうした一人暮らしの家の前に置いていたビ
オラの植木鉢が盗まれたのである。主人公は真っ直ぐに立
っていられないような「不安」に捉われる。こうした「不
安」の独特な描写が目を引くのであるが、「不安」の原因
は、主人公と夫との「家庭」の形成の仕方とでも言うべき
ものにある。夫は祖父母、両親が「死」に、一人暮らしに
なった家で、田舎から出てきて孤独な主人公と「秘密基
地」のような「家」を作って来たのである。それは、
「死」外部社会から、「生」=「内部」を守る秘密基地
でもあるのである。

 アメリカの社会学者・リチャード・セネットは、『公共
喪失』で、十八世紀に都市空間で形成された「公共
性」空間が十九世紀の「国家」/「家庭」の形成によっ
て、更には二十世紀の資本主義の隆盛によって崩壊し、
「家庭」は十九世紀のヘーゲルの法哲学が、あるいはフロ
イトの精神分析が想定したような国家や市民社会に出てゆ
くための準備的システムである教育/躾の場所ではなく、
産業社会でエネルギーを使い果たした人間が休息 するた
の「ナルシシズム的空間」であると断じた。 
 
 この作品の「家」は、典型的な「ナルシシズム的空間」
ある。外に対して完全に閉じられた「秘密基地」とし
て、分自身の「自我」と完全に重ねあわされている。
「家」「私」の一部である植木鉢が盗まれることは、
したがって自分自身から何かが欠如したことに他ならない
のだ。植木鉢の盗難が、睨めっこの相手が逃げてしまった
ような感覚として、あるいは自分自身の存在を形成してい
るパズルのピースが欠けたような感覚として表現されてい
るのはそのためである。

 主人公は、「お花を盗らないで」と張り紙をした家の女
と情報を交換し、自分の家にも張り紙をしたことで、同
じように花を盗まれた向かいの家の主婦と初めて話をし、
コミュニケーション可能な空間を広げていく。しかし、一
番重要なのは、幼少のころ過ごした村で、農家の鋤を盗ん
回り、池に沈めた知恵遅れの青年のことを思い出したこ
とである。主人公は、その青年の盗みは、自分が『金の斧
・銀の斧』の童話を青年に聞かせたことが原因であり池の
中から女神が現れるはずだ、と思い込んでの盗みだった、
ということを思いだすのである。この思い出が喚起される
ことで、主人公は様々な家から盗んできた植木鉢を自分の
周りに置いて「女神」が現れるのを待っている女性を想像
し、初めて不安が解消されるのである。
  
 この挿話の意味するところは、ラカンの無意識の規定、
無意識とは他者からの話であるという発見に似ている。
つまり、自分の意図しない領域、自分が見えない位相に
「他者」がある、ということであり、「他者」は自分が
作り出した原因の意図しない、反転した結果として在る、
ということである。言い換えば、「私」に対して「他
者」である主観も、「私」を「他者」として見ている主
観で在ることを発見するのである。
 
 最後の部分で、主人公は結婚以来連絡を取っていなかっ
た田舎の家に住む姉に電話をかける。まったく相入れなか
った姉という「他者」とコミュニケーションを取れるよう
になる、というところで話は終わる。